第2話「南山手になぜ洋館が残っているのか?の話」

更新日:2022/02/06

 全国推定12人の読者の皆様、お待たせしました。待望の第2話です。前回は「南山手地区町並み保存会」について話しましたが今回は南山手が文化財指定を受ける前夜の裏話「南山手になぜ洋館が残っているのか?」です。

 事の起こりは、昭和40年代、私が純朴な鼻たれ小学生の頃に「何やらお上がここら辺の洋館を国宝に指定するらしいぞ。」との噂が流れてきました。当時の南山手は築100年以上の洋館にごく普通に人が暮らしていました。木造住宅ですからかなり傷んでいる洋館が多く、この噂は最初大歓迎されました。「国宝になれば国が修理してくれる。」と短絡的に考えたからです。ところが次に流れてきたのは「国宝(文化財)になったら勝手に改築できないらしい。」との話でした。これには多くの住民が困惑しました。と言うのも当時の洋館はリビングや個室がある本館、炊事場や風呂がある別館、トイレは外の小屋という不便極まりない造りが大半だったからです。(我が家も外トイレで往生してました。)高度成長期の好景気で鉄筋コンクリートの真新しい家がもてはやされていた時期に、このままの状態で固定されてはかなわないと思った住民は3派に別れました。

① 古い洋館を叩き壊して新しい家を建てる。
② 部分改築をして住みやすくしてしまう。
③ なすがままでほっとく。

 こうして居留地時代から続く南山手の眺めは一変したのです。洋館は次々に取り壊され、通り沿いには車庫付きの新しい家が軒を並べました。道路や下水も整備され、ほぼ現在の街並みとなったのです。    
 さて、我が家は②を選択しました。家長である祖父が解体に断固反対したからです。20代から半世紀住んでいる家への愛着がそうさせたのでしょう。結果、本館には手を付けず別館とトイレを作り替えることとなりました。うちの近所の洋館も同じ選択をしました。理由もほぼ同じだったと思います。
 哀れだったのは、なすがまま住宅でした。年老いた主と共に朽ち果て、取り壊されてしまいました。(一部の洋館はグラバー園へと移設、復元されました。)
ここまで読んでお分かりのとおり、現存する「在住洋館」(人が住んでいる洋館)は、②を選択した家だったのです。

 国をあげての伝統的建造物保存の施策が、逆に洋館の寿命を縮めてしまったという皮肉な話ですが、もし何も策を打っていなかったら、建築ラッシュに押されて現存する洋館は皆無だったことでしょう。万事塞翁が馬ですね。



「南山手の昔の街並み」©長崎大学古写真データベース



第1話はこちら  第3話はこちら 
 一覧に戻る