第24話「家難におうたらこれを売れ」

更新日:2023/12/02

 いつしか年の瀬となりました。慌ただしい日々をお過ごしのことと思います。さて、今年最後の小部屋は、祖父の謎の言葉シリーズのフィナーレを飾るにふさわしい逸話です。心してお読みください。

 

 「家難(火難が転じて家の一大事)におうたら(合ったら)これを売れ」祖父が言い残した家宝が、我が家にありました。縦長で見事な表装が施された南画です。南方系の樹木の前で優雅に扇子を持った女性が描かれた美人画は、マントルピースの上に鎮座し、祖父の言葉も相まって燦然と輝いていました。

 時は流れて祖父は92歳で大往生、親族が一堂に会しました。葬儀の後、生前の思い出話も尽き、いよいよ本題の遺産相続です。第二次世界大戦前に一財を成した祖父でしたが、その後通訳の職にも就かず蓄財を切り崩して生きてきたので、通帳にはだれも期待していません。本命は勿論家宝の南画です。手回しよく福岡から知り合いの画商が呼ばれていました。全員の視線が集中する中、画商は指を2本立てました。「2百万、2千万、もしかすると2億」みんなの期待と欲の皮は膨らみます。

 「2万。絵は贋作。表装代だけ。」画商のおやじの言葉が高い天井に空しく響き渡りました。親族が帰った後広間を見たら、南画は丸めて打ち捨てられ、祖父の位牌は蹴り倒されていました。ああ無情。

 

   「家宝の南画(贋作につき全体像は割愛)」

 

 

 

 

 

 

 

 家難の話はここで終わるのですが、実は後日譚があります。

 更に時は流れて、場所は長崎歴史文化博物館の展示室。生前の大堀哲館長と世間話をしている時でした。展示ケースの小汚い皿が目に留まりました。くすんだ灰地にぱっとしない青の釉薬で絵付けされた小皿、我が家では実に見慣れた代物でした。大堀館長に来歴を聞くと、鵬ヶ崎焼(ぼうがさきやき)と言い、1823年、出島貿易を仕切っていた町年寄・髙木作右衛門の一族・蒲池子明が稲佐山の鵬ヶ崎で、わずか30年だけ制作した陶芸だそうです。商用ではなく個人用として制作したので極端に数が少なく幻の陶器と呼ばれ、お値段は小皿でも10万円を超えるとの事。

 その幻が我が家では日常使いの食器だったのです。曾祖母が髙木の実家から嫁入り道具に持ってきたもので、小皿2枚・大小茶碗の4枚セットが20組、大皿や大鉢等を加えて総数100枚以上の陶器が、朱塗りの長持ちに入れられていました。

 大堀館長は学実的に目を輝かせ、私は$マークに目を輝かせ、母に連絡を取ってみると「ああ、おじいちゃんのあの汚いお茶碗ね。家を建て替えたときに若い大工さんたちにあげちゃった。捨てたんじゃないかしら。」

 二人とも涙目になったのは言うまでもありません。ああ無情。

 

「鵬ヶ崎焼の香炉」(長崎歴史文化博物館 所蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 皆様、今年もお世話になりました。よいお年をお迎えください。

 

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