第20話「気のどくな富三郎さん(3) ~順風満帆 幸せな時代~」

更新日:2023/08/05

 リハビリの甲斐あってほぼほぼ健康体に戻りました。さて、1回休みを挟み連載3回目です。前回は富三郎さんの父グラバーさんの略歴を話しましたが、今回からは富三郎さんの話です。いよいよ佳境となってきました。富三郎さんの活躍をご覧ください。

 

 倉場富三郎さんは、グラバーさんと淡路屋ツルさんの長男として、1871年長崎に生まれた、イギリス系日本人です。(実母は加賀マキとする説あり)英名はトミサブロー・アワジヤ・グラバーですが、倉場富三郎の名前が示すとおり国籍は日本でした。勿論、倉場はグラバーの当て字です。

 少年期から頭脳明晰だった富三郎さんは、長崎の「加伯利英和学校」を卒業後、上京し「学習院」に進みました。その後、アメリカに渡り「オハイオ・ウェスリアン大学」、「ペンシルベニア大学」を卒業しています。海外留学したことや、東京時代の下宿先が三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の家だったということから、人脈にも経済的にも恵まれた生い立ちであることが伺い知れます。

 しかし、難しい問題もありました。ハーフが珍しい存在だったこの時代、日本人の人権意識が乏しかったこともあって、富三郎さんは混血児とからかわれたり不当な差別を受けたりしていたのです。学習院にトップの成績で入学したにも関わらず、中退してアメリカに留学したのもこれが原因だったのでしょう。この問題はのちに大きな悲劇を生むことになります。

 

 1892年に帰国した富三郎さんは、グラバー商会から暖簾分けしたホーム・リンガー商会に入社し、若くして経営に携わりました。入社後すぐにイギリスから鋼鉄製のトロール船を輸入し、国内にトロール漁業を広めるなど実業界で活躍しました。

また、日英両方の血を引く来歴から英国紳士クラブ「長崎内外倶楽部」を発足し、日本人と外国人の交流を図りました。この団体の提案で雲仙に日本初のパブリックコースが誕生し、国内外から多くの観光客を呼び込みました。このゴルフ場は現在も運営されています。

 更に水産学者でもありました。長崎の魚類に興味を持っていた富三郎さんは、画家を雇って魚市場から仕入れた魚を写生させ「日本西部及び南部魚類図譜」としてまとめました。その精巧な図譜は700枚558種類に及び、完成までに20年かかりました。通称「グラバー図譜」と呼ばれ、日本四大魚譜のひとつに数えられています。

 プライベートでは、1899年にグラバーさんと懇意であったイギリス商人ジェームズ・ウォルターの次女、中野ワカと結婚します。二人とも日英のハーフで、見た目は外国人でしたが和装を好み日本人として暮らす仲睦まじい夫婦でした。

 

 仕事も家庭も順風満帆、長崎を代表する名士として活躍する富三郎さん、いつまでも幸せに暮らすものと誰もが思っていました。ところが時代の魔の手は密かに忍び寄っていたのでした。(つづく)

 

  「若き日の倉場富三郎」(グラバー園所有)

 

         「グラバー・ファミリー」(グラバー園所有)

 

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