長崎市南山手地区町並み保存センター
トップページ
更新日:2025/11/01
暦の上ではいつしか晩秋、熱帯雨林気候化している気温も落ち着き、旅行や観光にいい季節となりました。さて、南山手観光の目玉である洋館は、学術的には「洋風建造物」と言われてます。それは欧州の洋館には絶対ないものが乗っかっているからです。そうです、屋根瓦です。何故こんなことになったのか?今回は居留地時代の建築の謎に迫る話です。
我が家は居留地時代の1860年代に建てられた木造住宅です。今から30年前、当時築130年を経て劣化が進んだため全面修復を行いました。文化財の修復は文化庁、文化財課等の監督の元、一旦全て解体し傷んだ建材だけを取り換えて復元します。かなり面倒で高い技術力が必要な工事となります。尻込みする建築業者の中で引き受けてくれた(父のゴリ押しに屈した)のは、地元の谷川建設でした。
工事開始初日、棟梁の梅原さんを筆頭に谷川建設の皆さんがやって来ました。我が家を見た途端、梅原さんは固まりました。当時の谷川建設は「木の香りがする家づくり」を売りにした和風建築専門だったのです。障子もなければ縁側もない、代わりに暖炉とファサードがついている、棟梁はがっくり肩を落としました。この様子を見ていた我が家の家族も途方に暮れ、父も仏頂面で腕組みをしてました。
文化財課に委託された大学教授が監視する中、解体工事は進みました。屋根や外壁の板を外して梁と柱だけになった頃から、棟梁に変化が起きました。どう贔屓目に観ても全くやる気が感じられなかった棟梁が、突然嬉々として仕事を始めたのです。この変貌の理由は長らく謎のままでした。
俄然やる気になった棟梁は大学教授と何度も衝突しました。「この材木を使いなさい。」「何だと、こんな腐ってブヨブヨの材木が使えるか。」「これは文化財の復元だから使いなさい。」「俺は人が住む家を作ってる。こんなもんが使えるか。」と言ったやり取りです。勿論、我が家は全員棟梁を応援しました。最終的に在住洋館の「在住」が勝訴し、我が家は人が住む家として復元されたのでした。
時は流れて10年後、この小部屋にも再々登場するブライアン・バークガフニさんと世間話をしている時に、彼の一言で謎が解けました。「居留地時代の洋館と呼ばれる建造物は、苦労して日本の大工が建てました。」そうです。建てたのは日本人だったのです。
開国当時、こんな家を建てろと、イギリス人から図面を渡された大工さんたち、途方に暮れたに違いありません。見たこともない家を作れとの無茶な要求に、健気にも江戸時代からの伝統工法で応えました。ただし、唯一変更したのが屋根瓦だったのです。これは、技術面もさることながら、日本の気候を考慮したからと言われています。ちなみに、洋館はメートルでもインチでもなく「尺寸法」で建てられています。寸法からして和洋折衷だったのです。
棟梁がやる気になった謎も、一気に解けました。当初自分の専門外と途方に暮れていた棟梁は、外観こそ洋風だけど中身は日本建築であることに気づき、この家を建てた大工さんに敬意を表したのでしょう。「明治の先輩方、苦労されましたねぇ。いい仕事してるじゃねえですか。あっしが元通りにしてみせますぜ。(なぜか江戸っ子)」棟梁の心の呟きが聞こえてきそうでした。
全面修復から30年、ペンキの塗り直しや雨樋のメンテナンスはあるものの、棟梁が立て直した洋館は綺麗な状態を保っています。ご近所にいらしたときは、明治の大工さんたちに想いを馳せてご覧ください。