1階展示室にて常設展示中!
主に1930年代から1960代にかけて、長崎港や南山手の洋館、唐寺をはじめ長崎の各地の風景などを描き残しています。版画家としての技量と作風は当時、 「東に棟方志功、西に田川憲」 と評する人もいるほど素晴らしいものでした。 その作品は、彼が亡くなって46年経った今でも長崎の地元銀行のカレンダーになるなどして、長崎の日常の中に溶け込んでいます。 |
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グールモンの詩 | |
主に1930年代から1960代にかけて、長崎港や南山手の洋館、唐寺をはじめ長崎の各地の風景などを描き残しています。版画家としての技量と作風は当時、 「東に棟方志功、西に田川憲」 と評する人もいるほど素晴らしいものでした。 その作品は、彼が亡くなって46年経った今でも長崎の地元銀行のカレンダーになるなどして、長崎の日常の中に溶け込んでいます。 |
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残された作品の中の長崎は、多くの外国人が行き交った居留地時代(幕末~明治期)の面影がまだ色濃く残る昭和初期から高度成長期の頃でした。その作品からは、版画独特の素朴な味わいとともに、作者のある思いが伝わってきます。 それは、日本の貴重な歴史を刻む故郷・長崎への愛情で、しだいに風化していく長崎独自の景観を危惧する思いでした。 | |
出 島 | |
残された作品の中の長崎は、多くの外国人が行き交った居留地時代(幕末~明治期)の面影がまだ色濃く残る昭和初期から高度成長期の頃でした。その作品からは、版画独特の素朴な味わいとともに、作者のある思いが伝わってきます。 それは、日本の貴重な歴史を刻む故郷・長崎への愛情で、しだいに風化していく長崎独自の景観を危惧する思いでした。 |
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10代の頃から金子光晴など長崎に来た作家たちと交流をもち、20才の頃、画家を志して上京。そこで版画にめざめ、恩師や友人など人生に大きな影響を及ぼす人々と出会いました。その時代は、戦争の混乱期とも重なっています。折にふれ長崎に帰郷し、版画家として活動を続ける中、従軍画家も経験(昭和13~15年)。上海にも数年在住し、版画を通じて中国の人と交流を深めています。 | |
長崎くんち | |
10代の頃から金子光晴など長崎に来た作家たちと交流をもち、20才の頃、画家を志して上京。そこで版画にめざめ、恩師や友人など人生に大きな影響を及ぼす人々と出会いました。その時代は、戦争の混乱期とも重なっています。折にふれ長崎に帰郷し、版画家として活動を続ける中、従軍画家も経験(昭和13~15年)。上海にも数年在住し、版画を通じて中国の人と交流を深めています。 | |
彼と同時代を生き、交流のあった長崎の歌人、秦美穂(はた みほ)氏は、 「彼は風化など美しいひびきのある言葉ではなく、まさに滅び去ろうとする長崎を、必死に、すがりつくように、また憑かれたようにして描き、かつ板に刻(ほ)り起こした画家である。」〈~没後十年の田川憲版画展に寄せた一文より~〉と記しています。 (みろくや・ちゃんぽんコラムから) |
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人間の丘 | |
彼と同時代を生き、交流のあった長崎の歌人、秦美穂(はた みほ)氏は、 「彼は風化など美しいひびきのある言葉ではなく、まさに滅び去ろうとする長崎を、必死に、すがりつくように、また憑かれたようにして描き、かつ板に刻(ほ)り起こした画家である。」〈~没後十年の田川憲版画展に寄せた一文より~〉と記しています。(みろくや・ちゃんぽんコラムから) |
略歴
田川 憲 /タガワ ケン(1906~1967年)
1906年(明治39) | 長崎市桜馬場町40番地に生まれる(本名・憲一) |
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1924年(大正13) | 長崎市立商業学校卒業 |
1926年(大正15) |
この頃、木寺轍らと日向社を結成
第1回油絵展を長崎精洋亭で開催、画家を志し上京、宮内省主馬寮に勤める
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1927年(昭和 2) | 恩地考四郎に会う。これ以来版画に惹かれる |
1928年(昭和 3) | 川端画学校に入学。デッサン、油絵の勉強をする |
1933年(昭和 8) | 長崎に帰り、南山手十番に住む |
1934年(昭和 9) | 第1回版画個展を開催(長崎県立長崎図書館)、版画集『新板長崎風景』刊行、「版画長崎の会」を結成 |
1935年(昭和10) |
『海の見ゆる庭(グラバー邸)』国画会に出品
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1940年(昭和15) | 日本版画協会会員に推挙 |
1941年(昭和16) | 中国・上海に居住し、「上海版画協会」「上海版画研究所」を設立。この頃より「憲」と号す |
1945年(昭和20) | 東シナ海を漂流して五島に帰着。(これまでのスケッチ、版木、版画の全てを失う)、五島・福江市に住み、制作を開始する 金子光晴の詩「水の流浪」によせた『海洋版画譜』11枚を制作 |
1947年(昭和22) | 阿蘇を目指し、山鹿市に移住 |
1949年(昭和24) | 長崎に帰り、『浦上原爆遺跡』を刊行 |
1952年(昭和27) | 版画集『長崎詩帖』刊行 |
1956年(昭和31) | 長崎県より功労章受章 |
1960年(昭和35) | 長崎新聞社第1回文化章受章 |
1967年(昭和42) | 3月16日没。享年60歳。 |
1969年(昭和44) | 没後、回顧展が長崎県立美術博物館で開催される。 |