南山手地区町並み保存センター外観
建物概要
南山手町並み保存センターの建物は、
南山手12番館の敷地に建っていた旧雨森邸が昭和63年に解体されることになり、町並み保存のために長崎市が寄贈を受け移築復元した洋館です。
南山手12番館の敷地に建っていた旧雨森邸が昭和63年に解体されることになり、町並み保存のために長崎市が寄贈を受け移築復元した洋館です。
建物は明治中期に英国人ウィルソン・ウォーカー氏により建造されました。
一、二階とも正面にベランダを設置してベランダに面した居室の側面はベイ・ウィンドーを用いており、内装、外観ともに質の高い建造物で伝統的建造物に決定されています。
一、二階とも正面にベランダを設置してベランダに面した居室の側面はベイ・ウィンドーを用いており、内装、外観ともに質の高い建造物で伝統的建造物に決定されています。
木造二階建 桟瓦葺 下見板貼建築面積 212.25m2 延床面積 339.61m2
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南山手伝統的建造物群保存地区
長崎市南山手地区は、東山手と同じ旧居留地であって、主として住宅地として使われていた区域であり長崎湾を見下ろす眺望の良い丘の上に位置しています。保存地区の範囲は、丘陵の南山手町の大部分と、海岸寄りの小曽根、松ヶ枝町を一部含む区域です。 南山手の北寄りには、大浦天主堂、旧羅典神学校があり、その南には幕末から明治にかけての洋風住宅として旧グラバー住宅をはじめ、旧リンガー住宅、旧オルト住宅が現存しており、松ヶ枝町では、旧香港上海銀行長崎支店や旧長崎税関下り松派出所などが港に面して建っています。 これらはいずれも国宝や国の重要文化財に指定されています。地区の中心から南側は、現在でも静かな住宅地で、明治時代初期から中期にかけての洋風建築が比較的良好に残っています。 |
ウィルソン・ウォーカー氏について
ウィルソン・ウォーカー氏は船乗りとしてグラバー商会、ホーム・リンガー商会で働いた後、郵便汽船三菱会社に転じて、日本と上海間の航路の開設に尽力しました。
また、明治22年(1889)から明治25年(1892)にかけて、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー(キリン麦酒株式会社の前身)」の支配人としての活躍、日本のビール業界の確立に貢献しました。
また、明治22年(1889)から明治25年(1892)にかけて、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー(キリン麦酒株式会社の前身)」の支配人としての活躍、日本のビール業界の確立に貢献しました。
ウィルソン・ウォーカー年表
明治元年
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フィリピノ号で来崎、グラバー商会所有船ナルト号で一等士官となる。
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明治2年
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英国ベルファストで船長免許状取得。
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明治3年
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三菱商会の前身である「つくも商会」に採用される。
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明治7年
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三菱商会所有船の蓬莱丸船長(弟ロバートは同船の一等士官)として台湾征伐に参加。
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明治8年
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新潟丸の船長として上海航路の開発に貢献し、三菱蒸気汽船会社の「監督船長」に就任。
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明治10年
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ウィルソンが指揮する新潟丸は横浜を出港、帆船としてロンドンまで航海(4ヶ月間かかる)。新潟丸はスコットランドの造船所で蒸気船として装備される。
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明治11年
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新装した新潟丸は9月22日に英国を離れ、11月23日にスエズ運河経由で横浜に帰港。
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明治12年
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新潟丸は新設の横浜―香港航路に就航。
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明治13年
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シャーロット・ヘフトと結婚、横浜の外国人居留地に居をかまえる。
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明治14年
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名古屋丸の船長に就任。
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明治18年
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三菱郵便汽船会社と共同運輸会社は「日本郵船会社」として合併、ウォーカー兄弟は新会社に移籍。
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明治17年
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ジャパン・ブルワリー社の筆頭株主となる(500株のうち100株を購入)。
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明治21年
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「キリンビール」販売開始。ウィルソンは英国に渡り、日本郵船会社の最新船「西京丸」を横浜まで操縦(同年8月到着)。
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明治22年
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日本郵船会社を退社、ジャパン・ブルワリー社の支配人に就任。
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明治26年
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ジャパン・ブルワリー社を退社(3月)、瀬戸内海における水先案内業務を開始。シャーロットと6人の子供は横浜から神戸に移住。2歳の次男ウィリー病死。同年11月、一家は長崎に移住し、南山手12番館に居をかまえる。
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明治27年
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日清戦争勃発
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明治29年
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シャーロット・ウォーカーは南山手10番で「クリフ・ハウス」ホテルを開業。
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明治41年
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ウィルソン二世は日本人の恋人と共に満州国安東市に移住。
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大正3年
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ウィルソンは、長崎医科大学病院で病死し、坂本国際墓地に埋葬(享年69歳)。
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大正8年
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シャーロットは、第一次世界大戦中の平和活動を称える「エリザベス女王勲章」をベルギーのアルバート王より受章。
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大正9年
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シャーロットは、長崎の邸宅と「クリフ・ハウス」ホテルを売却、未婚の娘2人と上海に移住。長崎に残るウォーカー一族はロバート・ウォーカー二世一人となる。
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大正11年
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南山手12番の旧ウィルソン・ウォーカー邸と10番の「クリフ・ハウス」ホテルは「田中雨森共同病院」となる。
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昭和7年
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ウィルソン二世は満州国安東市で死去(享年51歳)。妻ナミと5人の子供たちは日本に帰国。
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昭和12年
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日中戦争勃発後、娘と孫たちと共に上海から香港に避難したシャーロットは病死。
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